北裡商店街の裏路地を進んで行くと、道沿いの一角に「最上位稲荷」という社が建っています。小さな社ですが、北裡の歴史には欠かせません。
■最上位稲荷の本山
この「最上位稲荷」の本山は、岡山県岡山市にある寺院で、正式名称を「最上稲荷教総本山妙教寺」といい、伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷として有名で、仏教とともに発展したため法華経の題目で法要されています。
今から1200年くらい前、本山一帯は山岳修行の地とされ、最上稲荷の開祖である「報恩大師」も修行をしていました。大師は、天平勝宝4年(752)に朝廷から、第46代孝謙天皇(48代称徳天皇)の病気平癒の勅命が出されたため、八畳岩の岩窟にこもり祈願を行うと、結願の朝に「最上位経王大菩薩」が現れ感得し、その後も祈願を続けると天皇の病気が完治したと伝えられています。さらに延暦4年(785)には、桓武天皇が病気になり大師の祈願によって回復したため、天皇は最上位経王大菩薩の宮殿と七堂の堂宇を造営し、「龍王山神宮寺」と名付けました。しばらく寺は栄えましたが、戦国時代に入ると羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「高松城水攻め」によって、堂宇や記録、宝物などが失われてしまいました。
しかし、本尊だけは八畳岩の下にあった元宮と呼ばれる場所に安置されていたので無事でした。 慶長6年(1601)、領主となった花房公が関東より日円聖人を招いて、最上稲荷の霊跡を復興させ、寺名を「稲荷山妙教寺」と改名しました。明治維新後の1868年(明治元年)3月には、新政府によって神仏分離令が発令されましたが、神仏習合を許されたため現在に至っています。
このように昔から人の病を治すなど不思議な力があるとされ、無病息災だけではなく、商売繁盛、学力増進、交通安全、家内安全などのご利益があると現在も多くの人びとから信仰されています。
■北裡へ勧請
さて、北裡商店街にある「最上位稲荷」は、北裡花柳界の発展と地区住民の守護守としてこの本山へ勧請を懇請し、昭和3年に仲間町1-4番地にあった演舞場敷地内に社殿を造営しました。もちろん商店街の経営者や置屋などの芸妓に信仰され、当時の奉納のお祭りは露店が並ぶなど、とても華やかなものでした。しかし時代の流れとともに街は変わり、昭和57年に現在地へ社殿を鎮座しました。近年まで、福島二業組合地区住民の氏子講中が中心となって子ども盆踊りなどが奉納されていましたが、現在は東光寺の住職による法要のみ執り行なわれています。
■最上位稲荷祭の様子