北裡商店街は「北裡界隈の中央通りに無いものはない」というほど多くの店が立ち並んだ時代に、商店主たちが協力しあって作られました。ここでは商店街ができるまでの歴史についてお話しします。

■奥州街道と旅籠

 時代は江戸時代まで遡ります。江戸時代から明治にかけて、奥州街道沿いにあった北南町には旅籠(はたご)が並んで賑わっていました。ここで旅籠と言っても、宿屋だけではなく「飯盛り女(めしもりおんな)」という遊女が抱えられていたので、遊郭も経営され大人の遊び場として多くの人が訪れていました。
 あの松尾芭蕉も「おくのほそ道」で福島城下の宿に泊まったと残されているので、北南町にある旅籠に泊まったと思われます。
北裡の裏路地  江戸時代が終わりを次げ、明治時代に入っても旅籠は賑わっていましたが、明治30年頃には中央通りの開通もあって、更に多くの人びとが北裡を訪れるようになりました。しかし、遊んでばかりいては資金が底をつきますし、人の出入りが多いため病人や怪我人も出るようになりました。そのため旅籠の周りには、物を換金してくれる「質屋」やすぐに手当てのできる「病院」が多く開業されていました。旅籠と質屋、病院はセットだったのです。

■「一本杉」の設置

 明治32年頃になると娼廃運動や公の遊郭設置が叫ばれるようになり社会的問題に発展。そこで当時の山田知事が新町(通称一本杉)の設計を許可したため、34年頃には遊郭業者が柳町と瀬ノ上町の「一本杉遊郭」に次々と移って行ってしまいます。後の昭和31年には「売春防止法」が制定され廃止されることとなります。
北裡の裏路地  こうして遊郭が「一本杉」に移っていったため、北町は宿泊のみの旅籠となり華やかさが失われるかと思われましたが、町家の人たちが仲間町や宮町に宿屋客を接待するための小料理屋や芸妓の待合、菓子舗、飲食店などを次々と開き、賑やかさが増していったのです。
 どうしてこの2つの町に店が集中したかというと、お寺がなかったからです。昔から上町や大町、舟場町には寺がありました。また当時は新町付近にも「慈恩寺」や「普門寺」があったため、お堂や墓地を移動させて店を出すということは困難でした。逆に仲間町や宮町には、幸い寺が無く広い土地があったので店を建てることができたのです。またこの頃、あの細面の美人画で有名な「竹久夢二」や福島民友花壇で有名になった歌人の「佐藤嘲花」など、多くの有名芸能人が北裡で遊んでいたという話が残っています。
北裡の裏路地  現在も割烹万松や芙蓉閣(以前は皐月)が残っているので、当時の建物の様子を見ることができますが、その他の建物は駐車場やマンションになり、ほとんど無くなってしまったことは残念です。しかしお店が存在した証として、福島稲荷神社の狛犬があります。これは昭和13年に待合や小料理屋が稲荷神社へ狛犬を寄贈し、狛犬の台座後方には今でも店名が刻まれているので、当時あった待合や小料理屋などの名前を見ることができます。

■娯楽の街

 さて北裡界隈は「色街・花街」として有名でしたが、小料理屋や待合意外にも娯楽施設がたくさんありました。
北裡の裏路地  例えば明治時代ですと稲荷神社の北側にある今のセントラルハイツの所に「新開座」という劇場があり、歌舞伎や大衆演劇などの公演が盛んに行われ、劇場の周りには役者名の入った鮮やかな幟が並び、芝居を観に来た客や役者の追っかけなど多くの人びとで賑わっていました。
 しばらくの間は芝居が娯楽として楽しまれましたが、戦後昭和20年代に入ると映画全盛期という時代の到来とともに劇場が姿を消していきました。北裡の裏路地この時、劇場に代わって次々と造られたのが映画館で、新開座の後には「東映映画館」、現在の福島斎場のところに「日活映画館」、その向かい側に「東宝映画館」、仲間町ライオンズマンションが建つ以前は「松竹映画館」がありました。当時のスターだった佐田啓二や石原裕次郎、小林明、高倉健、水谷八重子、吉永小百合など多く俳優の主演映画や鉄腕アトムなどアニメ映画まで幅広いジャンルが上映されていました。
 後に映画ブームが去って、映画館は駅前方面に移転したり、閉館することになります。こうして時代の変化に対応しながら、北裡は「福島の浅草六区(東京台東区にある歓楽街)」と呼ばれるほど華やかな歓楽街にまで成長したのです。

■現在の北裡商店街

北裡の裏路地
 現在は、昔ほどの華やかさはありませんが、比較的大きなビルが少なく63軒もの個性的な路面店が特徴です。また、何か懐かしく思わせる街並みと人情の温かみが残る一度は訪れてみたい素晴らしい商店街です。

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